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ゲームは死を描けるのか? 

 というわけで4/9に国際大学GLOCOMで開催された「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会」について雑感。ゲームにおける「死」の表現を巡っての発表&ディスカッションで、とてもおもしろかったです。
 ゲームは死を描ける、そのためにはゲームならではの表現様式が必要で、そのためにはルドロジー(ルール、システム)とナラトロジー(ストーリー)の対立を越えることが必要だ、というのはその通り。でもって個人的には、その鍵の一つがインターフェースにあると感じる次第。ゲームも情報デザインの一つで、ゲームで感動する、泣くってのは、入力と出力の行為を繰り返しながら、いかに情報をプレイヤーにうまく伝えられるか、ってことですからね。
 たとえば映画がオリジナルストーリーを観客に効率よく理解させる上で、イマジナリーラインなどの発明が必須だったように、石ノ森章太郎の漫画のコマ割りが漫画表現に革新をもたらしたように、少女漫画のモノローグや白い背景がキャラクターの内面を表現する上で必須なように、やっぱりゲームにおいてもインターフェースとストーリーは因果関係があるんじゃないかと。ちなみにここでのインターフェースってのは、メインウインドウあたりまで含めて使ってます。
 具体的にはノベルゲームってありますよね。あれはなぜか一人称主観表現のストーリーのものが多いですよね。それは文字ばっかりっていう特殊な表現スタイルが主人公(プレイヤーキャラクター)の内面を描くのに向いているからで、そこが一部の特殊な市場にジャストフィットだったんじゃないかなあ(エロゲーの主人公は顔は描かれずに内面だけが描かれる)。その辺が同じエロゲーでも「ランス」とか「鬼作」なんかとの大きな違いかと。
 ま、ゲームでキャラクターの微妙な心理が描けるってのは、それまでなかったことで、その辺にオタクなニーズの圧倒的な支持があるんじゃないのかなあ。んでもって僕がそうしたノベルゲームが苦手なのも、オタクの自分語りにシンパシーを感じられないというか、ぶっちゃけ主人公に感情移入ができないからだと思いますW 一見同じノベルゲームの流れのように見える「金八先生」も、生徒や先生同士の葛藤や内面は描かれていても、主人公の内面はほとんど描かれないですからね。それもアニメ主体、ドラクエ型、テキスト最小限という「情報の見せ方」によって自ずと規定されたのではないかと。
 というわけでもっかいストーリーゲームの情報デザインについて、「ポートピア」あたりから流れを再整理してみると、いろいろ見えてくるものがあるのでは。などとネタだけ振って去っていこうW だってちゃんと調べるのは面倒くさいんだもん(インターフェースの検証だけで今までの話が実証可能なのか、書いてる本人もまったく自信がない。当然どこまでがインターフェースなんだ、って話も出てくるだろうし)。あと蛇足ですが僕が「FF」シリーズに関心がないのも、このへんの掘り下げを脇においたまま、映像技術だけが進化していくところに「なんだかなあ」と思っている、というのが書いていてわかったW 



しかし(僕も含めて)日本人ってこの手のストーリーゲームネタが好きですなあ。「ゲームは死を描けるのか」なんて、そのまま「ゲームはファンタジーを描けるのか」→「ファンタジーは死んだのか」(ゲーム批評創刊号第一特集)なわけで。あれから12年たって、もっかい学術的な場で再浮上してきたのは感慨深い。マンガ文化の影響かと。

あと席上で東さんも強調されていたけど、原典に当たるというのはとても重要なことで、開発者へのヒアリングが不十分なまま議論を続けていくと、上滑りになって議論のための議論になっていく危険性が大。ま、開発者を穴蔵から引っぱり出してくるのはアカデミズムではなくジャーナリズムの役割という気もしますがW